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【人生ほど重いパンチはない : 025】カーネル・サンダースの人生その②(再掲出3) 

どうも「映画/健康雑談」の高岡です。還暦+2です。

前回【024】では「ケンタッキーフライドチキン」の創業者である「カーネル・サンダース氏」の0歳から49歳までの人生の歩みをみてみましたが、今回はその続きで50歳以降の彼はどういう人生をどう歩んだのでしょうか?

50歳の時点で、まだ「ケンタッキーフライドチキン」という「料理名」が生まれていないのです。一体、これってどういうことでしょう?f:id:TakTakaoka:20220125215120j:plain

上記フォトはPixabayからの画像になります

カーネル・サンダースは、50歳の目前で、それまで精魂傾けて経営してきた「レストラン」と「モーテル」が火事で全焼してしまうという災難に見舞われてしまいました。

 

1941年  51歳 

1941年7月。コービンという土地に「サンダース・カフェ」が再びオープンすることになります。このレストランは142席もあるかなり大きなものになりました。そして、この時期になり、ようやく、例の我々が知っている「やわらかくて、味がしみわたっていて、口の中でとろけるような」味の「カーネル・サンダース・オリジナル・レシピ、イレブンスパイス・フライドチキン」のレシピが完成したのです。

 

1947年  57歳

この年、サンダースは39年間一緒に暮らしてきた妻、ジョセフィンと正式に離婚をします。しかし、離婚後もカーネル・サンダースはジョセフィンの面倒はよくみていたということです。

 

1949年  59歳

カーネル・サンダースは「サンダース・カフェ」の従業員だったクラウディアに恋をして、結婚することになります。以後、サンダースは30年あまりクラウディアと一緒に暮らすことになります。

 

1941年7月に再開し、客足を順調に伸ばしていた「サンダース・カフェ」でしたが、徐々に雲行きが怪しくなりはじめます。アイゼンハワー大統領の政策により国道25号線に迂回路が作られたことによりカフェの前を通る車の数が激減してしまったのです。その上、さらに追い打ちをかけたのが新しいハイウェイの建設でした。

 

「たいした偶然とはこのようなことをいうのでしょうか?」

カーネル・サンダースは自伝の中でこう言っています。

 

「もし、ハイウェイが建設されなかったら、おそらく私はケンタッキーフライドチキンを始めなかっただろう」

 

仮にカーネル・サンダース氏が経営していた「サンダース・カフェ」の経営が悪化することなく、その後も順調にビジネスが続いていたとしたら、彼はレストラン経営だけにその意識を集中させていたことでしょう。そうなると「ケンタッキーフライドチキン」は彼のお店から外に出ることはなく、世界中にあの美味しさが広がっていくことはなかったことになります。

「サンダース・カフェ」のあるコービンからかなり離れた場所にハイウェイが完成してしまうと、まさに「サンダース・カフェ」は閑古鳥がなくことになってしまい、どんどん赤字が膨らんでいってしまいました。彼は内心「自分の時代は終わってしまったのか」と感じていたようです。しかし、日本でいう「年金」の額が、毎月105ドルしかもらえないと知ると愕然としてしまいます。そして、この時改めて気づくのです。「そうだ、私には誰にもマネの出来ないチキンの料理のレシピがある。あのチキンがあったからこそ『サンダース・カフェ』は賑わっていたのだ!!」と!

 

1955年  65歳

彼はお店を売却・手放すという苦渋の決断をします。税金や未払いの支払いを差し引くと彼の手元にはほとんどお金は残りませんでした。カーネル・サンダースは65歳でまたも人生の「どん底」に落ちてしまいます。

彼は自伝の中で「60歳を過ぎてからの自分の人生を、大きく変えた出来事が二つあった。ひとつはハイウェイの建設で、もう一つはピート・ハーマンと出会ったことだ。」と言っています。

ピート・ハーマンはカーネルよりも年齢としては年下の青年で、ユタ州で「ハーマンズ・カフェ」というハンバーガーショップをやっていました。この友人の一人であったピート・ハーマンがカーネル・サンダースが作りだす「フライド・チキン」をとても美味しいと思い、最初にフランチャイズの契約を結んでくれた人物なのです。そして、ピート・ハーマンこそがカーネルにお店の名前は「ケンタッキーフライドチキンがいい!」と言った人物なのです。

そして、ここから彼の「1010」への挑戦が始まったのです。この数字は何かというと、彼が時に奥さんのクラウディアさんと一緒に車にスパイスを積んで「フライド・チキン」のプレゼンの為にお店を訪問した数なのです。最初にピート・ハーマンがフランチャイズの契約をしてくれましたが、ピートが契約してくれた後、正式に契約してくれるお店・オーナーがなかなか現れなかったのです。しかし「この道しかない」と腹を決めているカーネル・サンダースは車に寝泊まりをしながら、2年間を費やして1000回を越えて、この「フライド・チキン」を紹介し続けていったのです。そして、ついにピートに続く、フランチャイズの契約を締結できたのは、彼が1010回目のプレゼンを行った時だったのです。

 

ですから「カーネル・サンダース氏」が67歳になった時にはじめて「ケンタッキーフライドチキン」というお店が大きく成長していく「礎」がようやくそこで形成されたというわけなのです。

「継続は力なり」

「成功するまでやり続ける力」

このように文字にするとすらすらと書けてしまいますが、皆さん、どうですか、2年間に1010回もひたすら自分の味を信じて、プレゼンし続けるその「信念」「根性」を凄いと思いませんか?彼のこの姿勢こそが、よく言われる「成功するまでやり続ける」という言葉そのものと言っていいのではないでしょうか?!つづく 上記のブログ(記事)を書くにあたり、藤本隆一著「65歳から世界的企業を興した伝説の男、カーネル・サンダース」(産能大学出版部刊)を参考にさせて頂きました。この本には上記以外にも「ためになるカーネル・サンダース氏のいきざま」が多く綴られています。ご興味のある方は是非・お読みになってみてください!