どうも「映画/健康雑談」の高岡です。
今回は、前回「迷信」について書いた【雑談39】の続きとなります!
前回ご紹介した「迷信の謎」という本の表表紙には「信じる信じないは読んでから!」と書かれています。
この本では、かなりの数の「迷信」が解説されています。私はこの本を読んだ時、ほとんどの「迷信」とその解説文を納得して読み続けていたのですが、ただ、その中の一つの解説文に中に「うん、この結論はどうなのだろう?」と思うものがありました。
Jill WellingtionによるPixabayからの画像
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それが以下の「迷信」と「解説」です。
「カラスが変な鳴き方をすると人が死ぬ」
本の中では、この「迷信」の解説として「墓場はお供え物があったのでカラスにとっていいエサ場であり、そこにカラスが集まったので暗いイメージがついてしまったので、カラスが人の死を予想することはありえない」といった内容が書かれていました。でも、私はそうとも思えず、この「迷信」に限っていうと、私は個人的には「信じる派」なのです。
というのも、それは今からおよそ半世紀も前の私が小学生の5年生か6年生(昭和47,48年あたり)の頃のことです。当時は墨田区の押上で2階建ての家に祖父母と一緒に暮らしていたのですが、ある秋の日、自分が学校から帰ってきて2階にある自分の狭い部屋で一人宿題をしていた時のことです。2階と1階の間に小さな屋根があったのですが、そこに一匹のカラスがどこからともなくやってきました。足音がしていたので「あ~カラスが来てるなぁ」とは思ったのですが、さして気にも止めず宿題をしつづけいました。するとそのカラスがある時から物凄い声で鳴き始めたのです。私は去年還暦(60歳)になりましたが、その声は、これまでの人生の中で聞いたカラスの鳴き声の中で一番大きな鳴き声でした。私は思わず「でけぇ声のカラスだなぁ」と思って、そのカラスがいる方の窓ガラスの木戸を開けてみました。すると、その小さな屋根の上にごくごく普通のカラスがいて、私と目が合うと急に鳴くのを止めました。人間の顔をみたらどこかに飛んでいくだろうと思ったのですが、飛んでいく気配はなく、今度は静かにそこにとどまっているのです。私はその時は何も感じることなく「ふ~ん」と窓を閉めて宿題を再びし始めました。それから40分ほどして一階にある家の黒電話がなりました。叔母がその電話に出たのですが、その電話は私が一緒に暮らしていた祖母のお兄さんが亡くなったという知らせでした。その祖母のお兄さん、私は「田舎のおじさん」と呼んでいたのですが、私が母子家庭で父親がいないことを不憫に思ったからなのか、いつも会う度にとても優しくしてくれていました。その電話は、その「田舎のおじさん」が急に心臓発作に襲われて先ほど亡くなってしまったという知らせでした。
その日の夜、家にいた家族のメンバーは、あのカラスが鳴いていた時間と「田舎のおじさん」が亡くなった時間が同時刻だったこともあり「田舎のおじさん」がカラスの姿を借りて我々に別れを告げに来てくれたんだねぇと話しをしました。
そういえば「普通、カラスって、人間が窓をあけたら驚いてすぐに飛んでいきそうなものなのに、しばし静かにそこに停まってくれていたなぁ。」と思いました。
そう思うと、一般的には「暗いイメージのカラス」も、なんだかとてもぬくもりのある存在に思える経験をしてしまったので、私は今もってカラスに対して悪いイメージだけでは見られないところがあったりします。
「迷信の謎」の中では「カラスが人の死を予想することはありえない」という解釈でした。私は「カラスが人の死を知らせる能力があるんです!」などと力説しようなどとは思っていませんし、上記のような体験をしていなければ、100%疑問も持たなかったと思います。
ただ「田舎のおじさん」が亡くなった時間にあれほどの大きな声でカラスが鳴いていたという事実。単なる偶然なのかもしれません。でも、自分は、自分なりに「田舎のおじさん」が会いにきてくれたのかもしれないと思っていた方が「心がほっこり」するので、そう思い続けていこうと思っています。いつの日か自分も、あちらの世界に旅立ち、「田舎のおじさん」と再会することがあったら「あのカラス、おじさんだったの?」って聞いてみようかと思っています! 了