どうも「映画と健康雑談」の高岡です!2023年の年頭にあたり、私の記事の中でもかなり注目されて繰り返し読んで頂いている記事をまた再掲出させて頂きます。この「映画」には本当に色々なことを考えさせられてしまいます。
前回の【映画15再々掲出】では「ヘレン・ケラー」と「サリバン先生」の激しくも尊い二人の関係を描いた作品「奇跡の人」を紹介いたしました。今日は映画で描かれた後の彼女たちの人生はどういったものだったについてみていきたいと思います。
映画「奇跡の人」ではヘレン・ケラーはサリバン先生の厳しくも温かい教育のおかげで指を使ってコミュニケーションを取ることが出来るようになり二人で椅子に揺られながら眠っているシーンで終わります。
その後、ヘレン・ケラーとサリバン先生はどのような日々を過ごし、どのような人生を歩んだのでしょうか?
まずは二人の出逢いまで遡ってみましょう。ヘレン・ケラーは1880年 6月27日に生まれます。7歳の時にヘレンの両親は聴覚障害児の研究家であり、電話の発明者としても知られるグラハム・ベルを訪れてパーキンス盲学校の校長先生を紹介してもらいます。両親はその校長先生に自分た日の娘・ヘレンの為に家庭教師の派遣の依頼します。そして、やってきたのが若干二十歳のアニー・サリバンでした。ですからサリバンの方が13才年上ということで、サリバン20歳・ヘレン・ケラー7歳の時の出逢いという事になります。我儘に育ってしまったヘレンに「学ぶ」姿勢を分からせるまでのサリバン先生の苦労は大変だったようです。
「学ぶ」姿勢を身に付けたことによってヘレンは高等学校にも行けるようになり、20歳の時にはラドクリフカレッジ(現在のハーバード大学)に入学することになります。
アニー・サリバンはヘレン(24才)の薦めもあり37歳の時にハーバード大学の講師でヘレン・ケラーの自叙伝の編集に携わった11歳年下のジョン・メイシーという男性と結婚します。そして、ボストン郊外のレンサムという町の家に3人で生活することになります。
ヘレン・ケラー(29才)
政治的・人道的な抗議運動に参加していき、著作家としての活動も始めます。
ヘレン・ケラー(33才)
ジョン・メイシーがレンサムの家を出ていき、サリバン(46才)の結婚生活は事実上、破綻。(サリバンが亡くなるまでメイシーは正式な離婚はしていない。)
ヘレン・ケラー(36才)
疲労が原因でサリバンの目の病気が再発。其の為、ポリー・トンプソンが二人のもとで働くようになる。
ヘレン・ケラー(37才)
生活苦となりそれまで暮らしていたレンサムの家を売却。ハリウッドでの活動、新しい書籍の出版などの活動を行っていく。
ヘレン・ケラー(56才)
この年、アニー・サリバンが70歳で亡くなった。亡くなる前に「来日要請」が来ており、日本に行くことを躊躇していたヘレンに「日本に行っておあげなさい」と言ったことが遺言となった。
サリバン先生、亡きあとはポリー・トンプソンがヘレンのために通訳をすることになった。
ヘレン・ケラー(87才)
その後は、87歳で亡くなるまで教育家、社会福祉活動家として活躍した。亡くなるまでに3度も日本に来日をしている。
ヘレン・ケラーといえば「奇跡の人」が代名詞のようになっていますが、もともとの小説や映画の原題は「The Miracle Worker」ですから師であるアニー・サリバンを指す言葉だったのですが、ヘレン・ケラーが来日した際、サリバン先生は既に他界していたことから「奇跡の人」はヘレン・ケラーのことだと日本人が思うようになってしまったようです。
映画の中では人形の「DOLL」のつづりを覚えるのがやっとだった7歳の少女ヘレン・ケラーが大学を卒業するまでになっていくなんて、正に「驚き」です。しかし、実際の大学へ入るための勉強はかなりハードだったようです。そして、しっかりと大学を卒業してしまうなんて、頭が良くて向学心が物凄く高かったのでしょうね。う~ん凄いです。
以下は、映画「奇跡の人」の「そうなんだ話し」です。
映画の中でサリバン先生を演じてアカデミー賞主演女優賞を受賞したアン・バンクロフトは他に「卒業」「愛と喝采の日々」「エレファントマン」など映画史に残る名作に幾つも出演していて気品のある素敵な女優さんですよね。映画好きの私として意外(?)だったのが、ご主人がコメディ系の映画監督・プロデューサーのメル・ブルックス氏だったということなのです。
アカデミー賞助演女優賞をヘレン・ケラー役で受賞したパティ・デュークは1979年の「奇跡の人」のリメイク作で今後はサリバン先生役をしているんです。それと彼女の息子さんはあの「ロード・オブ・ザ・リング」でフロドの従者サムを演じていたショーン・オースティンなのです。う~ん、感慨深いなぁ~!