映画と健康/雑談で心ほぐし

「映画」の話題をメインに「健康」「雑談」に関するブログをお届けします!もし気に入って頂けましたら右と下にあります「読者になる」のどちらかのボタンを押して頂けると嬉しいです!よろしくお願いします!

【人生ほど重いパンチはない:特別編 再掲出】鈴木敏文会長が人生を賭けた「セブンイレブンプロジェクト」!

どうも「映画/健康雑談」の高岡です。還暦+です。

鈴木敏文会長が、それこそ人生をかけて臨んだ「セブンイレブン」プロジェクト。大勢の役員たちが反対したというこのプロジェクトでしたが、我々一般消費者にとっては必要なものが欲しい時に買える便利なお店であったコンビニが、21世紀になって映画「マトリックス」の世界のような異空間を体験させてくれる、そのような場所に変貌してきている(?)と思っているのは私だけでしょうか?

f:id:TakTakaoka:20220125215120j:plain

上記フォトはPixabayからの画像になります。

私が子供の頃に暮らしていた町は、今、東京スカイツリーが聳え立っている墨田区の押上です。そこで結婚する30歳(1961~1991) まで暮らしていたのですが、昭和40年代の押上には、今のような大きなスーパーマーケットはなく、昭和の風景の中によくある下町の町並みの中「八百屋さん」「魚屋さん」「乾物屋さん」「ふとん屋さん」といった個人経営のお店が一つの通りの両サイドに軒を連ねていて、そこで買い物をするというのがごくごく普通の生活様式でした。「駄菓子や」「プラモデル屋」「荒物屋」もありましたねぇ!

そんな下町にもスーパーマーケットなるものがいよいよ出現してきます。そうです、隣町の「曳舟」に1967年7月にイトーヨーカ堂がいよいよオープンしたのです。私が6歳の時でした。1958年に千住の店舗を拠点にして株式会社ヨーカ堂が設立されます。この(旧)曳舟店は11号店にあたるようです。創業者の伊藤雅俊会長に次いで、イトーヨーカ堂の社長になる鈴木敏文氏は転職組で1963年に31歳でイトーヨーカ堂に途中入社しています。1963年時点でのヨーカ堂の店舗数はまだ5店舗だった時代です。(旧)曳舟店がオープンした時、鈴木会長はイトーヨーカ堂の社員としてバリバリとお仕事をなさっていたわけですね。

さてさて。鈴木敏文氏が入社した1963年(昭和38年)の10年後である1973年(昭和48年)にまで年が一挙に飛びますが、この1973年という年はイトーヨーカ堂にとって大きな節目となります。

この時1973年、鈴木敏文氏にとってそれは正に彼のサラリーマン人生をかける「セブンイレブン」と出会う年になったのです。

当時、イトーヨーカ堂の取締役であった鈴木氏は部下の業務開発担当の清水秀雄統括マネージャーをともなってアメリカに出張に出かけます。そこで日本人に合うアメリカの企業を一つ残らずチェックしていきました。そして、日本人の舌に合いそうなコーヒーショップ・チェーンであるデニーズを選び出し、業務提携を申し入れました。二人はこのファミリーレストラン巡りをしている最中に、町のあちらこちらで見かける小さな雑貨店のようなお店があるのに気付きます。調べてみるとそれはサウスランドという会社が運営している「セブン‐イレブン」というコンビニエンスストアでした。そして、当時の鈴木取締役は、この「セブン‐イレブン」なるものを日本で展開していくべきだと自分の中でその決意を固めていくのです。そして、日本に帰国し、伊藤雅俊社長をはじめ他の多くの役員たちの反対を押し切る形で、この事業を行うということを決定していくことになるのです。それこそ、この選択に鈴木氏は自分の命運をかけたと言ってもいいでしょう。彼の中でこの決断がなされたの1973年だったわけです。そして、同年にイトーヨーカ堂はサウスランド社とライセンス契約を結びます。

1974年、東京の江東区豊洲にフランチャイズ方式の「セブン‐イレブン」1号店がオープンしました。

 

そして、時は20世紀から21世紀に突入し、1号店がオープンした1974年から49年経つことになる2023年の現在「セブン‐イレブン」の店舗数は、日本国内だけで21,000店舗強となっています。(ちなみに全世界での店舗数は7万店を越えています)

日本におけるコンビニの店舗数の第一位はセブン‐イレブンですが、2位はファミリーマートで約16,500店舗、3位はローソンの約14,000となっています。

 

「セブン‐イレブン」というコンビニは、時代の変化とともに日本おける業種というか、その役割が大きく変化してきています。いみじくもそれはイトーヨーカ堂の創業者である伊藤雅俊氏が氏の著書である「商いのこころ」(日本経済新聞社・刊)の中で以下のように語られています。

「少量多頻度の現在の配送システムの確立には大変な苦労がありました。追い風になったのは、その後の情報革命の急進展です。コンピューターの普及で、商品の受発注がオンライン処理されるようになり、セブンイレブン自身が最大の推進役となったバーコードの普及と重なって、商品の単品管理が出来るようになったことが決め手です。

 

伊藤雅俊氏が使用している「オンライン処理」「バーコードの普及」といったワードからもお分かりのようにコンビニの利用度アップには、その時代にマッチした技術革新がかなり貢献していることも事実のように思います。更に伊藤氏は以下のようにも述べています。

 

「日本のセブン‐イレブンは情報化で、本家アメリカのセブン‐イレブンよりもはるかに先行しました。その結果、同じコンビニエンスストアチェーンで、しかも親子の関係にありながら、扱う商品や運営のノウハウ、システムなどの内容は似ても似つかないものになってしまいました。アメリカのセブン‐イレブンが小売業の域を出なかったのに対して、日本のセブン‐イレブンは小売業の域を超えて進化し、高度に情報化されたサービス業に脱皮したと言っていいと思います。」

 

私が冒頭で映画「マトリックス」の中の世界観を感じるとお伝えしましたが、仮にある欲しかった本を「セブンネットショッピング」で検索し見つけて購入する際、昭和の時代では考えられないのは、まず自宅の机の上に置かれたPCから購入が出来てしまうということ(携帯電話からも可能でしょう)。そして、その品物を受け取る際のお店を全国のセブン‐イレブンの店舗の中から、自分の受け取り日の行動に合わせて選ぶ事が出来るということ。仮にあなたが大学生であり、大学への登下校の際に受け取りたければ通学途中にあるお店を選べるし、仮にあなたが会社員であれば、お昼休みに会社の近くの店舗に受け取りに行けばよいわけです。土日に家の近くのセブン‐イレブンで受け取りたければ、そのように自宅に一番近いお店を選択しさせすればよいわけです。

昭和の時代「本・書籍」というものは「本屋さん」で購入するという選択肢しかありませんでした。

自宅で注文したものを自分のその日の行動パターン上で通過するセブンイレブンの店舗でPC上で発注した書籍を購入・受け取ることが出来る日が来るなんて全く想像もしていませんでした。

今2023年を生きている若い日本人たちにとって、こんなことは、ごく当たり前のことでしょうが、「昭和のこどもたち」にとって、これって本当は「ドラエモン」の世界の出来事でしかありませんでした。これはセブン‐イレブンに限らず、他のコンビニでも同様なサービスが実施されていく(る)でしょうから。

ここで思い起こして頂きたいのは、自分が選びさえすれば「全国どこのセブンイレブンでも受け取れます!」というこの環境が整備されているということ。これって実は全国津々浦々、21,000店舗もセブン‐イレブンが存在しているからこそ成せる技なのです。これって過去に国が運営していた郵便局網を民間の一企業人が創りあげてしまったようなものですよねぇ。もちろんお一人ですべてをなさったわけではありませんが・・・。

1973年にイトーヨーカ堂の取締役だった鈴木敏文という一人のサラリーマンが人生をかけて取り組んだ壮大なプロジェクトが21世紀になり見事に成熟して、今や日本になくてはならないインフラになってしまっているというこの凄さに、改めて驚かされてしまいます。

 

そして、日々普通にセブン‐イレブン利用させて頂いていることにただただ感謝するばかりです。