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認知症の行きつく先は?【メンタルヘルス002】

どうも「映画/健康雑談」の高岡です。還暦+4です。

前回の【メンタルヘルス001】では「レジリエンス」というワードについてのブログをお届けしました。民間資格ではありますが「メンタル心理ヘルスカウンセラー」と「セカンドキャリアアドバイザー」という資格をもっているのと60数年というこれまでの人生経験で何か皆さんのお役にたてることがあればとの思いから【映画】以外にもブログを書かせてもらっています。

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Murray RuddによるPixabayからの画像

 

2年前に亡くなった母は「極度の認知症」の末、亡くなりました。また、彼女は40歳代のはじめ、今からもう40年以上も前のことですが「大腸がん」になり8時間におよぶ大手術を行いました。手術の内容を簡単に説明すると大腸の肛門に近い部分に「癌」があって、その部分を除去して、残った腸を伸ばして、正常な腸同士を繋ぎ合わせるというものでした。長時間の手術は、なんとか成功しましたが、数日して、その繋ぎ合わせた腸の部分、腸の壁と壁がくっついてしまい、所謂、「腸閉塞」の状態となりました。先生からは再手術の打診がありました。手術がうまくいかない場合は人工肛門にせざるをえないかもしれないので「よろしいですか?」という強い念押しを受けたと記憶しています。そして、また前回同様に長時間の手術を受けることになりました。結果、人口肛門を付けることにはならずに済みましたが、かなり重い後遺症が残り、薬を多く呑んで床に伏せるという日々が2年、3年位続くことになってしまいました。

40年前の時代というのは「癌」になった患者さん本人には「ショックが大きいだろう」という理由から「癌」であることは伏せて話しをすることが、通例?となっていました。

ですから母が自分が「癌」になっていたことを知ったのは60歳になってからでした。20年間、自分が「癌」だったと知らないで過ごせたことは気弱な母にとっては「ストレス」という点からすると「良いことだった」と思っています。

 

そんなわけで私や母の妹たち兄弟は母が少しでも長生きしてくれればいいと思っていました。シングルマザーである母の下で育った私は老年期に達した母を手助けする為に週末の土日のどちらかに母と一緒に大きなスーパーマーケットに出かけて行っては一週間分の買い物をし、そこで二人でお昼ご飯を食べたり軽くお茶などをしておりました。70歳から82歳あたりまで週末のこのルーティンは続きました。そして、いよいよ母親の記憶力の急激な衰退をみせた時期がありまして、ガスコンロに火を点けたまま寝てしまったら大変だと思い、この時点で施設のお世話になることを決めました。

プロのヘルパーさん達のいる施設は、とてもありがたかったですね。母のお風呂などは、どうしても一人息子の私ではなかなかどうして行うことが難しく女性のプロのヘルパーさん達に行ってもらい本当に助かりました。

 

設に入ったばかりの頃は、まだまだ記憶力の方も、もの忘れが酷くなってきたなぁという程度でした。それが年を重ねるごとに、それこそ「脳」の「力」=「脳力」(こんな言葉があるかどうかは分かりませんが・)がどんどん弱くなっていってしまいました。母が「認知症」の症状が出始めた頃に「どうして、さっき言った(やった)ばかりじゃん。何でわからないんだよ~」と私自身声を荒げてしまったことが何度もありました。

 

あなたがもし50歳後半から60年代の初老の域に入り始めた老年の親を持つ身だったとすると「さっき言ったでしょ」とか「どうして分からないの?」という言葉が出始めてしまったら、それは悲しいけれど自分の親はもう「認知症の領域」に入ってしまったんだと認識すべきなのです。

 

施設生活が始まってから3年間は普通に会話が出来ていました。ところが85歳を過ぎてから「認知症」が極度に進みだしてしまいました。簡単な計算が出来なくなり、自分の誕生日も分からなくなってしまいました。ましてや私の誕生日などはもうなかなか思い出すことが出来なくなりました。

「こんなことも分からないの?」

信じられないかもしれません。でも悲しいかな、あなたが自分の息子・娘だと分からなくなってしまう日が来てしまうかもしれないんです。それが「認知症」の酷いところです。

私の場合、電話をずっと毎日のようにしていたからなのかこの声こそが「息子の声」ということで「この声の主は息子なんだ」と母の脳には刷り込まれていたようです。結果的にこの声の持ち主は私の息子だと死ぬ迄理解してくれていました。

ただ「新型コロナ」が蔓延していた時期は施設での面会が出来ませんでした。やっと面会が出来るようになるまで2年間強くらいの歳月が流れてしまいました。2年間という時の流れの中で、私自身も「還暦」を迎えてしまい、黒髪から白髪になってきてしまい、体重も増えていましたので、2年前の風貌とだいぶ変わってしまっていたことは否めません。2年ぶりに施設で母に面会出来るということになった日に施設を訪れました。1階のロビーの長い通路の向こうの方からヘルパーさんが車いすで母を私のところまで連れてきてくれました。2年前の風貌と変わってしまった私を見てどうも誰だか最初は分からない様子でした。太ってしまい、髪の色も白髪になってしまっていることがどうも理解出来ないようでヘルパーさんから「息子さんですよ~」と言われたのと、私の声を聞いたことにより、私が自分の息子だということは半分くらい理解したようなのですが、どうも完全に私が誰だか分からない様子で訝し気に首を傾けながら

「あの~~、若い方の、もう一人の貴方はどこにいるので

 すか?」

と言われてしまいました。

「あの若い方の人が2年経って、歳をとった姿が、目の前

 にいるこの人になっているんだよ。」

と説明したのですが、どうも完全には理解しきれてはいないようでしたが、話しをしているうちに「声」が息子の「声」だということは分かったようなので、その後はどうも理解が出来ているようでした。

 

ただもうこの後の施設生活では、だんだんと「脳力」が衰えていき、振舞いも何だか子供のようになってきてしまいました。それまでは夜にヘルパーさんにトイレにいくのを普通に手伝ってもらっていたわけですが、何が気にくわないのか、ある時期から急に怒り出して、睨んだり、ヘルパーさんを蹴ろうとしたりするようになってきてしまいました。

 

それからは母を静かにさせるために仕方なくベットに母の腕を縛りつけるということもせざるをえなくなってしまいました。

 

母が亡くなる前の一年間は本当に施設の皆さんにはご迷惑をおかけしてしまいました。亡くなる半年前にはもう面倒が見切れないレベルになっていました。夜中の暴力的な行為は続き、食べ物を口にしたと思ったら直ぐに戻してしまったり、栄養が行きわたらなくなってきて体力もどんどんと衰えていくことになりました。

 

私が面会に行くと自分の息子が来ているということは分かっていたようでした。亡くなる1カ月位前から栄養をどう取ってもらうかがヘルパーさん達の悩みの種となっていました。すでにこの頃にはもう固形物は食べられなくなっていました。そして、ある日、ヘルパーさんから「認知症の行きつく最後の症状」を聞かされて唖然としてしまいました。「認知症」が進んでしまい「脳力」(こんな言葉があるかどうかは分かりませんが・)が極度に無くなってしまうと「人間、食べるという行為、食べ物を口に入れて、噛んで(咀嚼)、飲み込むという行為すら忘れてしまうんです」

 

「ごくんと物を飲み込む際の飲み方が分か

 らなくなってしまうんです」

 

との事。これを聞いた時「認知症の最終段階」は死に直結するところまで行ってしまうんだと愕然としてしまいました。

 

母はその後点滴で栄養を体内に吸収していましたが、亡くなる直接の原因はそれが胃から逆流して呼吸が出来ない、ある種の窒息状態となってしまって、亡くなってしまいました。89歳でした。「大腸癌」を患ったことのある母としては天寿を全う出来たと思っています。いつも寄り添ってくれていた母の妹たちに私は感謝の気持ちでいっぱいです。

 

自分の親が「認知症」であることに気づいたら「相手を攻める行為はやめてあげてください。『あ、そうだね、そうかもしれないねぇ』と労りの気持ちで思いっきり接してあげてください。あんなにしっかりしていた人なのに信じられないという気持ちは分かります。でも、認めるしかないのです。自分をここまで育ててくれた感謝の気持ちをもって今度は自分の子供、しかもだんだんと幼くなっていく子供が一人増えたと思って、存分に愛してあげてください。そうすると、亡くなってから、あなたは泣くことはないでしょう。私は出来ることはやったので、母が亡くなった時、若干はありましたが、後悔の念は薄く、それ故に大泣きすることもなく、母を天国に送り出すことが出来ました。